「最近になってわかるようになった
父の話について」のその4です。
今回は三つ目、
「生きることの残酷さ」の話を
記事にしていきます。
「人が生きるということは、
他の命を犠牲にすることなんだ」
という言葉に対して、私は
「ほかの命を犠牲にしない生き方があるはず」
と信じ、その言葉を受け入れられませんでした。
残酷だから反発し、避けるのではなく、
だからこそ敬意をもって頂くことが
大事だと思いました。
目次
生きることの残酷さについて
3つめの話は、「生きることの残酷さ」です。
「人が生きるということは、
他の命を犠牲にすることなんだ」
という言葉に対して、私は
「ほかの命を犠牲にしない生き方があるはず」
と信じ、その言葉を受け入れられませんでした。
「野菜を食べればいい」と反発したのは、
今でも覚えています。
しかし、魚を〆て捌く動画や、
イノシシやシカにとどめを刺したり、
それらを解体する動画などを見るようになって、
そして何より、色々なことを
深く考えるようになって、
それが間違いであることに、気づきました。
まず私の言っていたように、
「野菜を食べればいい」ですと、植物は
まるで生きていないもののような扱いです。
植物も立派に、呼吸し、養分を得て、
必死に生きているのにもかかわらずです。
そして植物よりも動く魚や動物の命を
頂くことにおいても、
「残酷だからこそ、自分は無駄なく食べよう」
と思えるようになり、より食材に
感謝するようになりました。
命を奪うことは残酷ですが、それは
植物である野菜も同じ。
そんなことばかり言っていては、人は
何も食べることができません。
残酷だから反発し、避けるのではなく、
残酷なことだからこそ、糧となるものに
敬意をもって、残さず頂く。
「いただきます」等の食膳の祈りの意味が
わかった瞬間でもありました。
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