理不尽さの正体
理不尽な上下関係を生む、組織を構造にくっつく余計なもの。
それは「度を越えたわがまま」です。
「他人よりも上でありたい、優れた存在でありたい」という
利己的な考えが、この理不尽な上下関係を生んでいるのだと
私は考えます。
先ほどは、「確かに 指示を出す人と指示に従う人が
組織にいるのは理解できる」
と述べましたが、
これには「指示に従う人が指示に従うことで
支持を出す人が支持することで組織が成り立つ」
という相互関係が成り立ちます。
しかし実際の組織は、そう言った相互関係よりも、
長く勤めているから・年上だからという薄っぺらい理由で
上下が決まります。
役職や肩書が理由の場合もあります、
もっとひどいと明確な理由がないこともあります。
そんな薄っぺらい上下に従うことこそ
まさに理不尽だと私は考えます。
役職には「人を動かして仕事を効率化する」
という責務しかありません。
肩書には「その職についている」という効力しかありません。
年齢には一体どんな権力が国や法律から与えられているのか
私には理解できません。
まして「理由がない」など言語道断です。
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人の上に立つからには、それ相応の理由が存在し、
それに比例した責任が存在しますが、
それは決して、他人を尻に敷き、見下し、
人生観や価値観を押し付け、
相手を否定する免罪符にはなりません。
ところが現実では、
「俺は(私は)、〇〇(役職や肩書、年長者)だから偉い・上だ」
という意味不明な上下関係がまかり通っています。
私たちはハラスメントや生き方・価値観
ものの考え方に至るまでに文句を付けられ、
挙句ハラスメントまで受けなくてはなりません。
これが「度を越えたわがまま」でないのなら、
何といえばよいのか、私にはわかりません。
ここまでされて「しょうがない」と済ませられる聖人が
果たしてどのくらいいらっしゃるでしょうか。
少なくとも私は、
この記事を書いているだけでもはらわたが煮えくり返る想いです。
私も、アルバイトや職場、学校や家庭でも、
この理不尽な上下に甘んじ続けてきました。
しかしアドラー心理学の「人は皆対等」という考えに触れ、
鬱病やADHDを宣告された中で、
当たり前と思っていたものを見直して、
新しい自分として再スタートを切り、
様々なことを考えるようになって
「やっぱりおかしい」と思うようになりました。
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