最近になってわかるようになった父の話について、メンタルヘルスブロガーの考え

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「鬼野子」です。

いろいろ経験したからか、

いろいろ知ったからか、

よくわかりませんが、最近になって、

「父親に言われたことがわかってきた」

ということがあったので、

その気づきを記事にしました。

それは「人の生き死にについて」と

「失敗は成功の母」と

「生きることの残酷さ」という3つです。

「死にたくないのが当たり前じゃないのか」

「家族には長く生きててほしいじゃないか」

「失敗したらすべてが終わり」

「何かを犠牲にするなんてかわいそう」

という考えでしたので、理解できませんでした。

しかし色々と考えるようになって、

色々と知るようになって、

これら考えも変わってきました。

昔は自分本位に直感的に物事を捉え、考えて

そして行動していましたが、成長とともに

そして自分と向き合うようになり、

自分のそうした部分を冷静に

見つめられるようになって、

言葉の意味を、深く理解することが

できるようになりました。

ということで今回は、

父に昔言われたことが、

今になってようやく理解できたことについて、

語っていきたいと思います。

昔聞いた話でも、今になってやっとわかった

というようなことがあったので、

この体験が誰かの何かの役に立ったらいいなと

記事を書かせていただきました。

今回の記事が、

どこかの誰かの何かの役に立ったら

嬉しいです。

目次

人の生き死にについて

最初の話題は「人の生き死にについて」です。

人の生き死にについて、父は

「死ぬときは死ぬ」

「人は死ぬために生きている」

「無理やり生かされるよりも、

パッと楽に死んだ方が幸せ」

ということを話しておりました。

当時私は、小学生くらいだったと思います。

その時は、生きることはいい事・幸福な事

という考えを持っており、死について

怖いと考えておりました。

このことからこれらの事に対して、

「死ぬのが怖くないのか?」

「長く生きていた方が幸せなのでは?」

と反論し、そして長らくこの話を

理解できないでいました。

しかし祖父と祖母の葬儀、希死念慮を

抱くようになり生き死にについて

深く考えるようになって、この言葉の意味を

深く理解できるようになりました。

「死ぬときは死ぬ」=

「人は死ぬために生きている」=

「死というものは、必ずやってくる」。

人は必ず死にます。

生き物なら必ず、寿命があります。

死というものは、生命が避けようとする

一番怖いものですが、それはしょうがない事、

それを怖がってビクビク生きるよりも、

今日を一生懸命に生きた方が

ずっと有意義だと思います。

「無理やり生かされるよりも、

パッと楽に死んだ方が幸せ」。

生きることは確かに素晴らしいことですが、

必ず幸せな事とは限りません。

生命維持装置に繋がれ、

食べることも動くこともできずに、

排泄物を垂れ流しながら、寝たきりの状態で

無理やり生かされている。

家族目線で考えると、それでも

生きていてくれることが何よりですが、

本人目線だと、人間の尊厳を奪われ、

生きる喜びもない中、只生かされるだけ。

正に生き地獄だと思います。

回復して、また動き回って、食べたり飲んだり

できるのならいいのですが、それが叶わないのに

こんな状態で生かされるくらいなら、

パッと楽に死んでしまった方が、

絶対に幸せだと思います。

希死念慮で死にたくなる事が

あるせいかもしれませんが、

死というものを「怖いもの」だけでなく

「来ることはしょうがない」

「人間として生き生きと生きられない生は

死よりも残酷である」

「死を恐れるよりも、今ある生を

目一杯意味のあるものにする」

私はこう思いました。

失敗は成功の母について

次に最近になって理解できるようになったのは

「失敗は成功の母」です。

受験を経験し、学力至上主義な環境で

かつお世辞にも勉強が得意でなかった

筆者にとって、失敗は死に等しいものでした。

失敗することは、自信の終焉を意味するほどの

怖いものだったため、

「失敗は成功の母」という言葉は

受け入れがたいものでした。

ある程度自立して行動できるようになり、

様々な経験・失敗を経て、

ようやくこの言葉も、理解できるように

なりました。

「失敗の原因を次に活かす」ことが、

失敗を悔いることよりもずっと有意義なことだと

今なら感じます。

またこれは、以前の記事の学びの一つですが

「失敗を自分を責める材料にしない」

ということは、精神衛生上

とても重要なことだと思います。

失敗して、その失敗した自分に罵詈雑言を浴びせ

失敗した自分を悪としてしまうと、

そこから何かを学び取ることが

出来なくなってしまいます。

失敗したら、まずそれを受け入れ、

次にその原因を考え、それを次回に活かす。

自分を責めるのではなく、

かといって開き直って誰かのせいにするでもなく

冷静に失敗と向き合ってこそ、

失敗は成功の母になるのだと、私は考えます。

失敗は成功の為に、絶対に必要なことだと

私は理解しました。

生きることの残酷さについて

3つめの話は、「生きることの残酷さ」です。

「人が生きるということは、

他の命を犠牲にすることなんだ」

という言葉に対して、私は

「ほかの命を犠牲にしない生き方があるはず」

と信じ、その言葉を受け入れられませんでした。

「野菜を食べればいい」と反発したのは、

今でも覚えています。

しかし、魚を〆て捌く動画や、

イノシシやシカにとどめを刺したり、

それらを解体する動画などを見るようになって、

そして何より、色々なことを

深く考えるようになって、

それが間違いであることに、気づきました。

まず私の言っていたように、

「野菜を食べればいい」ですと、植物は

まるで生きていないもののような扱いです。

植物も立派に、呼吸し、養分を得て、

必死に生きているのにもかかわらずです。

そして植物よりも動く魚や動物の命を

頂くことにおいても、

「残酷だからこそ、自分は無駄なく食べよう」

と思えるようになり、より食材に

感謝するようになりました。

命を奪うことは残酷ですが、それは

植物である野菜も同じ。

そんなことばかり言っていては、人は

何も食べることができません。

残酷だから反発し、避けるのではなく、

残酷なことだからこそ、糧となるものに

敬意をもって、残さず頂く。

「いただきます」等の食膳の祈りの意味が

わかった瞬間でもありました。

これからの自分にどう生かすか

さて今回の記事では、

父から言われたけど、当時はわからなかった

今になってやっと意味や言葉そのものを

理解できるようになった言葉について

語って参りました。

改めて考えると、これらについて父が言っていた

「いずれわかるようになる」

という言葉も、その通りでした。

時間が経ち、色々な経験をして、

色々なことを見聞きし・知ることで、

だんだんわかっていくことがあるのだなと、

学べる瞬間でありました。

さてここからは、この学びから今後自分は

どのようい生きていくのかについて、

考えてまいります。

それは、「自分の直感だけで物事を判断しない」

ということだと思います。

これらの言葉の理解を邪魔していたのは、

一時の自分の感情だったと、

今の自分は思います。

もっといろいろなことを見聞きして、

ゆっくりじっくり消化すれば良かったなと、

今なら言えます。

確かに直感がものを言うときもありますが、

直感や一時の感情ばかりで生きていては、

人とも衝突して生きづらいですし、

何より冷静に物事を判断できないと思います。

今後は入ってきた情報を

そのまま鵜呑みにするのではなく、

時間をかけてゆっくり咀嚼し、

消化できたらいいなと思います。

今回の学びを活かし、より冷静に

物事を見れるよう、努めていきたいと思います。

今回の記事は以上です。

それでは、また次回の記事でお会いしましょう。

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